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16 Jun 2018
Culture

アフリカの近現代史① 1960〜2000

「アフリカの近現代史」は、アフリカの植民地からの独立(1960年)から現在までの歴史を振り返る。
後編は、「アフリカの近現代史② 2000〜現在」をご覧下さい。

チョコレートでお馴染みのガーナから

日本人にとってみれば、かの野口英世博士が身命を賭して黄熱病を研究した最期の地でもある。サブサハラアフリカ(サハラ砂漠以南)における植民地独立は1957年このガーナから始まった。

「隷属の下での豊かさより、自由のもとでの貧困」と掲げ翌年ギニアが続き、さらに1960年にはシャルル・ド・ゴール大統領の措置によって、仏系植民地13カ国を主として17カ国が独立。のちに「アフリカの年」と呼ばれるに至った。ちなみに、今パリ=シャルル・ド・ゴール空港はフランスの空の玄関口となっている。

同年10月にはガーナのクワメ・エンクルマ初代大統領が国際連合総会における演説の中でアフリカの自由を主張し、主に南アフリカに対して白人至上主義を終結させるよう呼びかけた。

“我々の時代の一つの基本的事実として、現代社会におけるアフリカの覚醒による重大な影響がある。アフリカのナショナリズムの潮流はあらゆるものを押し流し、長年行われてきた不正義や犯罪から我々の大陸を正常化するためだけに植民地保有国に対する挑戦を形成している。しかし、アフリカは復讐を求めていない。悪意を抱く事は本質に反している。我々200万人以上は声を揃えて驚異的なパワーで叫ぶ。どんな事を言っているだろうか?我々は抑圧者の死亡を求めないし、奴隷所有主に不運をもたらす願いを表明しない。我々は正当な要求のみを行い、アフリカの自由のために声をかけて海や山、丘や谷の上、砂漠で、人類の広大な居住地を駆け巡り、ブームになっている。アフリカは自由を望んでいる。アフリカは自由で無ければならない。これは単純な呼び掛けだが、その事を無視する傾向がある人達に注意を促す赤信号でもある。”

(「Black star square」というガーナの独立記念のための広場。1961年竣工。)

しかし、こうした国際的な呼びかけも虚しく、実際に人種隔離政策のアパルトヘイトが終結したのは時を経ること30年、マンデラが大統領に就任した1994年まで待つこととなる。

他方、南アフリカ以外の国々も独立こそすれど問題は続いた。多くのアフリカ諸国は西洋が独断で国境を設定し分断されてできた国家であり、多様な民族を内包したからだ。結果、民族間対立を嫌って、政治において多党制ではなく、一党制を導入した。

『ホテル・ルワンダ』に象徴される内戦

英、伊、南非の合作映画『ホテル・ルワンダ』で知られるルワンダ虐殺はつい20年前のことであるし、アンゴラ内戦は1975年から2002年、コンゴ戦争は1996年から2003年まで継続した。多くの国では、民族間での内戦、紛争が断続的に生じた。

血を流す争いを避けられた国々においても、一党制は汚職、腐敗、独裁を生み出しやすい構造をもたらした。実際、多くのアフリカの大統領はその任期が30年から40年間にも及んだ。私服を肥やし、人々は圧政に敷かれた。このため、マンデラ大統領は民主的なプロセスで自由が継承、発展するようにと1任期満了後、惜しまれながらもさっと政界から退いた。

この1960年のアフリカ諸国独立からおよそ2000年ころまでが日本人の脳裏にこべりついたアフリカのイメージではないだろうか。それは内戦、民族紛争、飢餓、病気に苦しんだ暗黒大陸としての印象である。そのためか、JICA、国境なき医師団、難民キャンプなどの辺境の村落で頑張っている人たちがすっと思い浮かぶ。

ただし、2000年代以降の都市部を中心としたアフリカ諸国の発展を見ると、こうしたイメージが、日本の「スシ、ニンジャ、フジヤマ」に等しいことがすぐに分かるだろう。

次回は21世紀に入ってからのアフリカの急成長について検討してみたい。

−「アフリカの近現代史② 2000〜現在」に続く